飯田水引プロジェクト

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飯田水引の歴史・意味

    水引は、607年(推古期)に隋国に渡った遣隋使小野妹子が帰朝の際、帰途海路の平穏無事を祈願して、献上品に紅白で染め分けた麻ひもを結んで日本へ持ち帰ったのが始まりとされています。以来、宮中への献上品は、みな紅白のひもで結ぶのが習慣となり、もって水引の起源とされています。また、朝廷内限定であったものを後世、武家社会で使われ始め、明治以降一般化して現在に続いていると言われています。

     飯田水引は、1672年(元禄期)に飯田藩主堀美作守親正が産業奨励で製紙、元結業を盛んにしました。紙原料の楮(こうぞ)が豊富に栽培され、飯田下伊那の良質な水と温暖な気候、内陸性の乾燥した風等は元結の原紙である晒紙(さらしがみ)をさらに高品質な紙へと成長させました。中でも飯田元結は、櫻井文七が江戸で販売したところたいへんな好評を得たことから「文七元結」としてもてはやされ、幕末まで全盛期を迎えました。

     1871年(明治4年)明治政府発令の通称「断髪令」を堺に元結の需要が大きく減少し業界に激震が走ったが、元結の技術を応用して飯田水引生産に大きくシフトをして危機を乗り切りました。現在の元結の需要は、相撲力士の大銀杏、歌舞伎等の鬘(かつら)、花嫁衣装の鬘ほか小規模市場であります。

     元結で培った「高品質」が活かされ元結から水引への転換は、生産面、販売面ともに大転換され綿々と今に続いています。冠婚葬祭を中心に高度経済成長期に団塊世代の結婚に伴い、飯田水引の主流は、金封加工や結納飾りなどにより全国の70%を生産するまでに成長していきました。その他に正月飾り、社寺仏閣のお札用品も生産されました。

     現代では、ライフスタイルの多様化、婚礼人口の減少により水引市場は大きな変化が生じています。新たな分野への開発や、工芸品製作、海外への販路開拓、アート、ギフトなど新たなブランド化を求めて職人たちは日々努力をしています。

    日本の「飯田水引」とは・・・

    日本の「飯田水引」とは・・・

    英語版中国語版

     飯田水引は、300余年の歴史を数える伝統産業です。水引には、人と人との縁を、心と心を結びあう意味がこめられており、その技術は「結びの技」にほかなりません。大切な人への感謝や愛情を込めて、気持ちを伝えるという大切な意味があり、今もなおその文化は大切に引き継がれています。

     そもそも水引とは、和紙を伝統的な製法によって色鮮やかに加工したひも形状のもので手の技による「結び」を基本としています。紙なのに切れにくい素材の良さと色の豊富さにあります。「飯田水引」の特徴は、芯の強い直線美と結ぶ技によってうまれる曲線の美にあります。また、300年培われてきた技術力、世界でも類を見ない希少性、そして商品バリエーションの豊富さにあります。品質の高い素材を使い、熟練した職人たちの手によって作り出される「飯田水引」は、日本の皇室にも献上されています。1998年、日本の長野県で開催された冬季オリンピックやパラリンピックで、選手に贈る記念品や入賞者に授与される月桂冠として採用されました。繊細な細工と日本的なデザインに多くの人が魅了され、飯田水引が世界の人々に認められたのです。丈夫でいて、美しく加工がしやすいという水引の素材の特性を活かして、伝統工芸のみならず、現代の暮らしの中にも新たな製品が生れています。

     世界中の人々に飯田水引の「結びの心と形」をお届けしたい。そんな思いが飯田水引プロジェクトに込められています。